自己肯定ではなく自己受容 『嫌われる勇気』を読んで

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こんにちは。本の内容もさることながら、青年の言葉遣いがジワジワくるJBです。

前回に続き、『嫌われる勇気』を読んで自分の人生に活かしたいと思った部分をご紹介します。

自己肯定と自己受容の違い

思い返せば10代の頃から、私は自分のあらゆる点について自信がないと認識してきました。

さまざまなことを経験するにつれこの認識は強まり、どうしたら自分に自信がもてるのか分からずにいました。

近頃「自己肯定感を高めるには…」「自己肯定感が低い人は…」という言葉をインターネット上でよく見かけます。

これは、私がYahooなどでその言葉につられてそういう記事をよく読むため自動的にそういう記事がどんどん上がってくるようになったのかな、と思っていましたが。

書店でもその手のタイトルが目に付くようになったので、私のような人は意外と多いのかもしれません。

『嫌われる勇気』には、自己肯定と自己受容についてのパートがあります。

一見たいした違いはないようですが、それぞれの違いが述べられています。

自己肯定とは、できもしないのに「わたしはできる」「わたしは強い」と、自らに暗示をかけることです。 ~中略~ 自らに嘘をつく生き方であるともいえます。

『嫌われる勇気』P227より

一方の自己受容とは、仮にできないのだとしたら、その「できない自分」をありのままに受け入れ、できるようになるべく、前に進んでいくことです。自らに嘘をつくものではありません。

『嫌われる勇気』P227より

できないことをできると自分に言い聞かせるのではなく、できないことをそのまま受け入れた上で、どうしたらできるようになるかを考える。

これが自己受容。

なるほど、と思いました。

世の中には根拠もなく自己暗示をかけることができて、かつそれが功を奏している人もいるかもしれません。

でも私はこれがうまくいったためしがありません。

「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極める

できないことをできないと認める。

そしてそこから、どうしたらできるようになるかを考えていく。

対話のなかで青年はこの考え方を「ポジティブなようにも聞こえるし、どこかネガティブな響きも持った話ですね」と評しています。

哲人は、これを「肯定的なあきらめ」と表現します。

自分の力で「変えられるもの」と「変えられないもの」とを見極める。

自分の力では「変えられないもの」を受け入れる(あきらめる)。

自分の力で「変えられるもの」を変えていく勇気をもつ。

変えられないものを変えようとすることは時間と労力の無駄遣いです。

できることから順を追って、一つずつ、コツコツと、ということですね。

根拠のない自己暗示をかけるより、これなら私にもできそうな気がします。

「ニーバーの祈り」

この話を聞いた青年は、『スローターハウス5』という小説に引用されている次の言葉を思い出します。

神よ、願わくばわたしに、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ

『嫌われる勇気』P229より

これはキリスト教社会で古くから口承されてきた有名な言葉だと哲人は教えます。

これが叶えば、人間関係の悩みやトラブルはあらかた消えてしまうのではないでしょうか。

ちなみに、この言葉を読んだときにパッと思い出したことがあります。

私は何度か恵方参りをしています。

やり方を調べたら、お参りの時に次のような言葉を唱えるのだそうです。

「私にチャンスに気づく知恵と、チャンスに乗る勇気をください」

ニーバーの祈りとうっすらどこか似ているような。

恵方参りとニーバーの祈りに繋がりがあるかどうかは分かりませんが、「知恵」と「勇気」が必要なのは地域や宗教が違っても同じなのかもしれません。

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